20220616
多くのヒトが、いつでも、安穏なこの状態を求めている。
恐らく太古の昔から~。このこころの状態を【しあわせ】と呼んでみよう。
かなり定性的ではあるが、悲しみや苦しみからは「こころが満たされた状態」は生まれてこない。簡潔に「笑い・笑顔」のことだ。
以前、【しあわせ】の定義をいかにもシステムエンジニアらしく、分析的に書いたことがある。生きがいをもっているとか、経済的に問題ないとか、他人とうまくやり、かつ、健康だとか……。
しかし、最近はちょっと、この考え方が変わった(笑)。
もっと、シンプルでいいのではないか?
別に貧乏でも、病気でも、もしかしたら、【しあわせ】を感じることができるのでは?
こう思うようになった。
こころが満たされる、このことにフォーカスした。
結局、エンジニア的にいうと、インプットとなる様々な情報があり、それを脳でプロセス(処理)して、結果、笑顔のアウトプットが生まれる。そうならば、逆にアウトプットがジーンと「感激」し、「感動」し、「笑顔」がこぼれるための、インプットとプロセスを考えてみよう。
インプット情報の入り口は、眼、耳、鼻、口、皮膚のセンス(覚)できる器官であり、プロセスが脳となる。仏教的には六根の表現である。見るもの、聞くもの、嗅ぐもの、食べるもの、触れるものにより、その結果、嗚呼、美しいとか、楽しいとか、気持ちいいといった「感激」や「感動」につながっていく。
ここでは、お金がないとか、足がしびれて痛いとか、自分の置かれた心身状態に関係なく、喜びは湧き上がってくるのだ。これを【しあわせ】と言ったら、シンプルすぎるだろうか?
従来の私の主張のように、自分のおかれた環境のあり様を条件にすることもあるだろうが、こころはその条件を満たしていなくとも、存在し浮遊している。だから、こころの満ち足りた状態は、いつだってフワフワとやってくる。逆にこころが不足に思うことは、どんなに健康な人にでも経済的に裕福な人にでもやってくる、こころの満足とはそういうものだと、つくづく思う。
会社は、たしかに、採用責任の意味からも、一人ひとりに対して、健康留意、金銭的満足感、コミュニケーションの在り方、モチベーションの維持を日々いっしょに考えて、長い時間実現させようと努めている。個々人の心身ストレスを抑制する環境的・経済的な境遇をつくろうとしている。そこにおいてすら、いつだって、考え方・ものの見方が大切になってくる。だから、従来にくらべると自由度が各段にアップしている。
あるヒトは美しい景色を前にシャッターを切るとき、またあるヒトは大好きなクラシック音楽に耳を傾けるとき、さらに、美味しいお料理をつくりお友達と食べるとき、お掃除してピカピカのキッチンを眺めたときなど。
それが【しあわせ】を噛みしめる瞬間なのだ。
そこに美しい数学的・哲学的なロジックをつくったときや苦しんだ末のバグの原因を発見したとき、みんなで飲んだバローロの味なども加えてみよう、えっ、無理(笑)。