■錯覚と誤解
フランスゴムの木をお世話して気が付いたことがある。
ベトベトしたゴムの樹液が幹や葉から出ていた期間が長くあった。
最近、日光を当てて、養分をたっぷりと補充したら、新しい葉がたくさん出て、かつ、その現象は無くなった。
フランスゴムの木にして、現象と原因。
理由があったわけだ。樹液が溢れていたのはストレスだった。
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植物は素直である。
一方、ヒトは「錯覚」と「誤解」で生きている部分が多々あり、厄介である。
言葉巧みに発言する。
例えば、建材の販売をしていて、価格が「高い」とか「安い」とか、意見があるが、
実のところ、この「高い」、「安い」は、その品物を良く買っていないと分からない。
知らないで他人からの請け売りで話すこともあるようだ。
結局、【比較】の世界である。
また、ヒトは同じサイトで一つでも「高い」品を見つけると、このサイトにある品物が全て「高く」感じてしまう。
これも「錯覚」や「誤解」の世界である。事実の水平展開思考。
複数の事実を一次情報として得ていないにも関わらず、勝ち組の流布する身勝手な事実(真実)は信じてしまう。あるいは、胡散臭い演技力に負けてしまう。
これにバイアスがかかって、ドライブがかかって、ことは拡大される。
大いなる「誤解」である。情報化社会以前の歴史は特に勝組が真実となっている。
本来、相対的であり、比較的であり、もしかしたら、天敵がいるから、自分の存在があるとか、案件によっては相補的である……。
実際、判断者の経験値の類似性が視点(モノサシ)となる。
「どういうこと? 笑」
つまり、自分がしてきた経験があって、ものを決めている。
無責任者は自分の言葉で話さない。常に主語に自分が不在である。
自身のなかに、成功体験(経験)は定着していて、価値基準になっている。
+ ここに多様性が加わる。
結局、大局的に言うと、まぁ五十歩百歩。
天網恢恢疎にして漏らさず、当事者だけが分かる世界である。
自分だけが正しいわけじゃない、大きな声で主張しない側に真が宿ることもある。
昨今の世相を見ていて、大らかに生きたい所以かな……。