室生犀星の「小景異情」 ~ふるさとは遠きにありて思うもの~
とのことで、故郷は帰るところじゃない。こうなるわけだが、年を重ねて故郷を想うことがしばしばですかネェ。
皆さまも、故郷を近くに手繰り寄せたい、この発想ありますかね~
もう住んでいる方、故郷の無い方はこの問いを無視してください。
年齢が後押しする発想なのか、最近、ようやく故郷に貢献したいとの思いが少し沸いてきた。
この年にして……です。
フツフツと沸くというより、ジワーッと、かなァ。
沸いてきた。烏賊の一夜干し(これは美味い)を食べたいこともあるが(笑)、沸いてきた。
故郷は自分史として歴史が浅い北海道。
だから、この思いは即、移住当初の祖父母に直結する。
当時の夢追いは「北前船」廻船だ。
一往復で数千万円から1億円稼いだと噂もある移動手段による仕入販売(需給)のビジネスモデルだ。
しかし、我が家の祖父母とは無縁である。土木建築系だったから。
恐らく、当時の北海道の玄関、小樽から船で、生誕地の利尻・礼文、稚内に入ったことが想像に難くない。その移動から、北海道での私の歴史が始まったわけだ。
新潟から小樽、小樽から稚内・宗谷岬。まるで歌のようなフレーズである(^^♪。
当時の小樽はニシン漁で沸きあがっていた。ニシン御殿は大きな屋根の上に越屋根より少し大きいぐらいの屋根がちょこんと乗っかつた形の家で、その塔になった部屋からニシンのうろこが光を浴びてキラキラと銀色に光るのを観察して出漁したらしい。まさに歓喜のダイヤモンドの輝きだったろう。
余談だが、ニシンでのマネタイズは、ニシンで作った肥料だったようだ。
さて、私の祖父は、山にダイナマイトを仕掛け、橋を作り、原野を拓き道路を作り、レンガを積んで家を建てる、土建業。
西部劇的な半狩猟民族型の生業だろう。
士族で入植した屯田兵とは違うから、こんなにバラ色の生活、一獲千金が待っている的な、呼び込み移住で兄弟や親類一族での移住となったことだろう。
移住、夢はあるが、現実の困難さは半端ない。
苦労に苦労を重ねて、「現在」を作ったに違いない。
間違いなくチャレンジャーだ。
開拓(開墾)的な農家は、特例法的なバックアップをうけての入植だっただろう。耕した分だけ自分の土地になるという。混乱と新しい息吹が重なる明治の時代、祖父の妹が今でこそ美しい丘に変貌した荒地の美瑛に入ったのは、そういう特例法が原点だ。
青森、秋田、新潟県からの移住が多かったらしい。
地名「北広島」は広島の人々。「伊達」は新政府に追われた伊達藩・仙台の人々。……。こうなる。そういえば、移住大国アメリカの地名のつけかたも同様である。
*
さて、故郷への貢献。一体、何ができるのだろう?
小樽の運河、当時の海運倉庫群を見ながら考えてみた。
人間より牛が多い地域だからと言って、今さらチーズ作りはできない、
日照時間の問題を横においても、ワイン造りはできない(苗を育てる時間で死ぬだろう(笑))、嗚呼、一体何ができるのか?
ワイン飲むことは得意だ(笑 ……✕
この地は海鮮や農作物は美味しいけど、素(フレッシュ)な味。
サービスセンスを加えたレストランとかは少ない気がする、だが、私にそのセンスはない。
食べるだけだから、こっちも……✕。
結局、サスティナブルなデザインの良い社屋を建設して、雇用創出できないものだろうか?
自分にできる数少ないことだ~
私に限らず、この年齢になると少なからず、帰趨本能としての故郷貢献が頭を過ぎるのだろう。かなぁ~。
そのうち実行できるかも、知れない。……。誕生日を前に考えたこと (笑)