遠藤周作の文学
「深い河」の美津子
多くの学者や研究生が遠藤周作研究のなかで、語られている大津と美津子の掛け合いに関しては触れるべくもない。
この連休、「深い河」を読み、それらの研究視点以外にわたし流の感想を列挙したい。
それは、この本の緻密な構成に対する驚嘆であり、いつものミステリアスな展開への感激である。
たとえば、美津子の行動や自問自答が女神の同質性となっていることだ。しかも、ここで言う女神とは、キリスト教的な聖母マリアではなく、老婆になってもなお病み苦しむものに乳を与え続けるインドヒンドゥー教のチャームンダーそのものである。
名前を美津子とした段階では、社会の表側であり、スコラ哲学的であり、キリスト教的であるが、同時にキリスト教的な原罪、ミツ子を返したツミという言葉の洒落感。
その厳格性がただよう名前とは裏腹に女学生時代の男を誘惑する奔放な性の描写において、乳房に興奮し、我を失う男たちの動きを俯瞰的・客体的に眺める様は、性的な快楽というより、大人たちへの母性(ガンジス河)を意味している。また、離婚後の男性との刹那的な性行動などの表現は、物質(肉体)と霊性(魂)の観点、善悪の観点からいうと、やはり、チャームンダー神の所作といっても良い。少し意地悪でサド的な性格と病院でのボランティアとの対比も実に見事に入れ子構造となっている。
わたしが遠藤周作の文学にふれた最初の一冊は、高校生のときに読んだ「沈黙」である。学校で読書感想ポスターを描く授業があり、立派な函入装丁の「沈黙」を選択し読んで描いたポスターが優秀賞となり、わたしの思い出に刻み込まれた。ポスターの話はどうでもいいのだが、そのとき描いたのは「アグリッパ像の面取」をモチーフにして彩色したものだった。
当時は心の弱いキチジローとの対比でモチーフにしたのだが、実際、人生の視点が豊富になった現在、あらためて再考してみると、キチジローの密告行為は弱者そのものだが、逆にいうと、「深い河」の美津子やガストンがひざまづく人肉を食したビルマの帰還兵で病人の塚田、沼田の身代わりになった九官鳥、あるいは、磯辺の妻の話し相手であった銀杏の大樹、これらは等しく内在する神であり、善悪、強弱、自然界の世界において、神の存在を大きく拡大したことになる。
拝まれるべき像を超えて、遠藤周作が一貫して描き抜いた弱者や悪行のなかの神、森羅万象のなかの神、、八百万の神々の国、日本に生をうけたクリスチャンとしての帰結が「日本的キリスト教」となって現れているのだ。最後の大津の危篤はキリストの人生の後追い的で面白かった。
誰に対しても平等で優しくおおらかな遠藤周作の顔が眼に浮かぶ。
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余談だが、学生時代、インドによく出向いていた住職の息子から、お土産でもらった線香のようなたばこの臭いを思い出した。気が付けば、彼はインド哲学の大学教授になっていた。
