ローカルな話題ですが、私にとって、大切な創業期監査役の山村好男さんのことです。
出会いは、平成3年(1991年)でしたか、私がM研究所のマルチメディア研究室長だった頃、
彼がソニーで映像の部長をしていて、業界のフォーマット標準化の会議で知り合いになり、
一つ違いの年齢もあって、時々食事に行ったり、一緒にビール片手に神宮球場で野球観戦をしていました。
ある時(2002年ごろ)、赤坂見附でランチをしよう、となって、お会いすると、
うなぎを食べながら、突然、会社を辞めて弁護士になろうと思う、こう切り出しました。
40も後半に差しかかる年齢の時です。
手帳にぎっしりと勉強スケジュールが書かれていて、休みなく勉強に打ち込むとのこと。
彼は早稲田の文学部卒だったから、法律家はかなりのチャレンジでした。
その時、私は 「誰かに相談した?」
「母親に相談したよ」
「で、なんだって?」
「あなたなら、大丈夫でしょう!」
「一番よく知っている人間がそう言ったなら、間違いなく、大丈夫だよ。頑張って!」 と私。
*
4年経過した年の年賀状に「受かったよ!」のメッセージ。
それから、修習期間を経て、見事に立派な熟年弁護士になりました。
私が熟年チャレンジで2011年の起業時にお願いして、社外監査役に就任していただき、
役員会のたびに、お互いの家庭のことなど、公私にわたり相談相手になってもらっていました。
その正義感の塊みたいな彼が、事務所を開設し、ちょっと疲れているみたいだったので、
色々と体調など心配して弁護件数など、少し減らしたらどうか、などなど助言したり、・・・。
心配していた矢先に、事務所から訃報が飛び込みました。
もう9年前のことです。まさかの突然の別れでした。
私の創業は、商品や取引先など何もない白紙状態でのゼロ創業でしたから、創業3年は火の車でした。
赤字も8000万円を超え、銀行にいたっては、信用保証をとっても、つぶれる会社には貸せないと窓口で断られ、
自身の給与も取れず、家の資金を全部つぎ込み、周囲の人たちに助けられて、なんとか浮上の形ができました。
「沈む船には乗れない」、そう言って、社員はどんどん退職。
私を含めて3名になり、天井の落ちそうな小さな暗い廊下のオフィスに移転。
始発電車に乗って出社し、必死に1円を大切にする節約経営を始めました。
山村元監査役には、
いよいよダメかもしれないと、覚悟を決める場面もあった時代に、手弁当で随分と励ましてもらいました。
まさに仲間、戦友でした。
寒くなると、ふと思い出します。
最後に届いた彼の軽やかな文字が彩る年賀状には、
戦争に対する危惧(ニーメラーの警句)と
初孫をえた句が詠まれてました。
かろきともまた重きともこのいのち抱き取ってみるわが血脈の
銀次郎
「もうひと頑張りしよう!」
こう辛かった時代の原点に戻って、勇気を奮ってます(笑)。
